ひとひら通信1997/春



特報 ニューアルバム「あ■そ■び■な」完成 全8曲

遊べや遊ぼ天まで弾も
いのち感じてはるかを眺め
それは冬の沖縄からはじまった

登場人物
下田逸郎 ボーカル ギター 作詞作曲
内田勘太郎 ギター 編曲
斉藤ノブ パーカッション 編曲
力石理江 キーボード 編曲
その他遊びに来た人 多勢
 




1 マハロ
ハワイ独特のチューニング。スラッキーギターのサウンド(勘太郎)により、この唄が生まれたハワイ島の景色が蘇りました。
「マハロ」はハワイ語で「ありがとう」の意。
桑名正博が同じタイトルで下田逸郎作品集アルバムをつくりました。



2 霧が深いよ
19歳の下田が太平洋上でつくった唄。シモンサイ(下田逸郎&斉藤ノブのデュオ・ユニット)のデビュー曲としてシングルカットされました。



3 探す人
信州の秋。黄金色の稲穂、夕焼け空、山の煙。「いい旅日本」というテレビ番組撮影中に眺めていた景色から生まれた曲です。



4 ふたりぼっちの唄
童謡、唱歌もしくは俳句や短歌。シンプルではるか。
下田がつくっているシリーズの中の1曲です。


5 赤いバラとチョコレート
シモンサイのレパートリーのひとつでした。下田の斉藤の師である浜口庫之助の作品です。
30年たってもその唄の中の景色が鮮やかに浮かびあがってくるのは、さすがハマクラです。



6 あんたもSO
このアルバムの為につくられた作品。
レコーディングの現場にいたすべての人が参加しました。



7 最後の誘惑
オーストラリア ケアンズの滞在中にできた作品。
斉藤ノブと力石理江、快心のアレンジで「飛べない鳥と飛ばない鳥」「たゆたい」などにみられる下田独自のはるかなる空間が、浮かびあがりました。



8 ホームシックは永遠に
旅があって唄があってまた旅がある。下田逸郎の唄への想いを表した唄です。
内田勘太郎との出会いもギター2本の一発録りにクッキリと出ました。


下田コメント


レコーディング日誌「あ■そ■び■な」下田通信所 所長 西谷千里





京都 東京 福島 宮城 埼玉と計6ヶ所のライブを終えた下田は、10日の夕方、ちょっと福岡に立ち寄って、11日雪の舞う早朝、沖縄へと旅だった。



沖縄のイベンター松田氏は、下田の一番の海友達である。毎年、夏、南西諸島ツアーと称する離島めぐりのライブをセッティングしてくれる。長い時は、一ヶ月にも及ぶ。
〜あの島が遠ざかり この島近づく〜
「マハロ」は南西諸島の景色がハワイ島と重なって、生まれた唄である。



昨年9月、関東に台風が上陸し大騒ぎしている時、下田は沖縄にいた。ライブと海の合間にのぞいたブルースフェスティバルで、内田勘太郎氏が、沖縄の仲間の中でギターを弾いていた。何かフッ切れたような素晴らしいプレイだった。大阪を拠点とする彼は、沖縄にもマンションを借りていた。



斉藤ノブ氏が福岡に来た。二人の氏、浜口庫之助氏の話になった。19才と17才の二人は、先生から「シモンサイ」という名を与えられデビューした。何のことはない「下&斉」らしい。30年前の話である。「今なら、先生の唄もシモンサイの曲も、唄えるかもしれない」と、下田は思ったらしい。



長い説明になったが、これらの出会いが今回のレコーディングとなった。当然、場所は沖縄で。
「普通のスタジオではない場所で」という下田の要望に、松ちゃんはあちこち走り回った。そして最後に見つけた場所に下田は同意した。資料と写真が、送られてきた。
27コースあるゴルフ場の、ど真ん中に建っているコテージだった。緑に囲まれていて、海だっていっぱいに広がっている。確かに普通のスタジオではない。しかし、「すみませーん。すみまーせーん。」と、ボールをよけながらいかねばならぬのだろうか。「フワァー」とOBの度に発せられる声が、レコーディングを中断させる事は無いのだろうか。



2月11日(火)
多くの不安をよそに、ミュージシャンのミーティングが、勘太郎さんのマンションで始まった。事前に送ったテープと譜面で、ノブさんは考えつく限りの準備とアレンジのできるキーボード奏者 力石理江さんも連れて来てくれた。



2月12日(水)
「ホームシックは永遠に」今年の正月、オーストラリア ケアンズに家を持つ埼玉の友人が、曲作りに使ってと3週間も貸してくれた。そこで生まれた唄である。勘太郎さんと2人で、一発録りにしたいと始まった。
「探す人」「あんたもSO」と、リズム体を中心にどんどん出来ていく。オッサンパワーに改めて敬服。力石理江は、とてもかわいい顔立ちだが名前の通り、立ち振舞い、たたづまいは、立派なオッサンである。
くわえ煙草でキーボードを弾く姿は、オッサンたちの中で、違和感はない。



2月13日(木)
コテージは写真で見る以上に、住み心地が良かった。2度の食事は芳美 ともこが、手早く準備をしてくれる。和と洋のチョイスも出来る。夜中の食事は、勘太郎さんの音楽仲間でもあり、ラーメン・パブ(カウンターだけのラーメン屋だが、週末に女の子が手伝うので、本人はこう呼ぶ。)の経営者でもある石垣勝治氏が、出前をしてくれる。出前のついでに「あんたもSO」の1フレーズを、沖縄を代表して唄って帰った。
「霧が深いよ」
シモンサイの30年前のデビュー曲が、勘太郎さんのギターを加えて、3人の新しい唄へと生まれ変わった。


2月14日(金)
唄が生まれて1ヶ月そこらで、CDに入るという事はあまり無い。
「最後の誘惑」
この曲も1ヶ月 ケアンズで生まれた。「ひとひら通信」の年賀状にこの一節が、書かれている。2月のライブで初めて唄った。ライブ終了後、多くの手紙が通信所に届いた。レコーディング中、唄っている下田が声をつまらせた。聴いてくれる人といっしょにつくりだすライブの席ではそういうこともあるだろうが、レコーディングで涙ぐんで唄えなくなったのは、オベール・シュル・オワーズでの「たゆたい」とこの唄だけである。
「赤いバラとチョコレート」
なんということのない詞が、琴線に触れるメロディにのって、1枚の絵を見せてくれる。下田は浜口氏の影響を受けているのだなぁと、私の知らない時代を想った。



2月15日(土)
「マハロ」
床に3人、丸く座り込んで始まった。ノブさんは沖縄で見つけたという大きさの少し違う子供用のタンバリンのような島太鼓を、片手に2つ持ってたたいている。
「やったんと違う?」「ごっつええんと違う?」一発録りで終わった。
力石理江は仕事の為、一足先に東京へ帰って行った。入れ違いに山口の絵描き(泣くかもしれない・離島にてのジャケットの海の絵)堀晃氏がわざわざのぞきに来た。1人で絵をかき、出来上がってから画廊の人とだけ接する絵の世界から見て、今回のレコーディングは感動の連続だったそうそうだ。「うらやましい」を連発する。
「晃も唄ってみるか?」下田が見せた譜面に「いやぁー、俺はダメだ。」という言葉とは逆に、手はすばやく譜面を奪い、口はもう歌詞を追っている。



2月16日(日)
「ふたりぼっちの唄」
ノブさんは、ラーメン・パブのかっちゃんが木の下で拾ったというエンドウをでっかくして、乾燥させたようなものを振っている。中の豆が動いて音が出る。それを聞いたかっちゃんは、いっぱい拾って東京へ売りに行くと言っている。
下田の海友達のもたいまさこさんが、小林聡美さんを連れて遊びに来た。
コーラスは「法事シスターズ」(芳美・ともこ・所長&小林・もたい)が受け持った。台所での作業があたかも法事の時に見られる景色だったのでこの名がついた。
「探す人」
もたいさんと下田のデュエットとなった。
「あんたもSO」
小林聡美さんは、さわやかに1番を唄って、拍手する皆に「心 洗われた?」と聞いてまわった。



2月17日(月)
オッサン達はよく食べよく飲む。買い出しは1日に3度、4度と続く。夜中の12時にも車を走らせる。コテージは、コースに沿って車で横付け出来た。ボールをよける心配はいらなかった。男部屋と女部屋に分けられたコテージの2階は、修学旅行と合宿の味でいっぱいである。
楽しい空気が、どんどん音になっていく。
音を全部録り終えて、トラックダウンも数曲こなしてノブさんは、「後は、まかせた。」と東京へ帰って行った。
勘太郎さんと下田はちょっと寂しそうに見えた。
レコーディングの初日に録った「ホームシックは永遠に」を「もう一度、しみじみとやって締めようか!」2人は向き合って座った。



下田逸郎は、ミュージシャン達とおもいきり遊んだようだ。
そこで みなさんにも あ・そ・び・な




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1999年10月:
TVCMで「セクシィ」流れてます。
映画「皆月」で「早く抱いて」が主題歌に。
1999年夏号:
「下田逸郎物語」本&2枚組CD発売しました
1998年秋号:
「PARIS 湯玉 HAWAII」&「いきのね」レコーディング日誌



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