ひとひら通信2001/9月

 







レコーディング日誌
      所長 西谷千里


北海道新冠は、下田逸郎がエジプトから日本へ舞い戻ってきた時に、長崎・沖縄・種子島と流れて、最後に辿り着いた所である。
レ・コード館は、名前の通り相当な数のレコードが収納されていて(今や、LPもなかなか聴くのがむずかしいということで、寄贈する人も多いとのこと)いつでも聴かせてもらえる。また、コンサートも出来る立派なホールもあって、上は展望台になっている。新冠の町のいたる所から見える近代的な建物だった。15年前、下田逸郎が住んでいた頃には、影も形もなかった。
そのホールのステージの上で録音をした。
下田逸郎は「館内でやっていても、外の豊かな自然のエネルギーを感じる」と言い、たゆたいアンサンブルのメンバーも、ゆったりと楽しんでいた。
京都で、新冠で録音したものにバイオリンを重ねることになった時、「こんな雄大なテンポでやってたんや。わぁ!身体を支えるだけでも大変」と、平松加奈さんが言った。『花よ鳥よ風よ月よ』のフランス録音のことを思い出す。日本に持ち帰った『セクシィ』を聴かせた時、業界の人達は声をそろえて言った。「回転数が遅いんじゃないの?」と。
 その場所のテンポが、そのCDのテンポになる。下田逸郎がスタジオでやりたがらない理由のひとつなのだろう。

音をとりつつ、ジャケットの準備もしなければならない。下田逸郎は、写真家の糸川燿史さんに電話をかけた。青山のMANDALA2のライブの時、ちょうど東京にいて、覗いてくれた。
毎年泳ぎ初めは、湯玉の画家・堀晃さんの所と決めているので、今年も7月中旬に1枚の葉書が届いていた。「そろそろ泳ぎませんか?」MANDALA2のライブが終わったら、すぐに行くと返事をして、それに糸川さんも誘った。糸川さんは、分刻みの忙しい時で、朝5時に起きて新幹線に飛び乗って来てくれた。博多駅で合流して、私の運転する車で湯玉へ向かった。着くまでの間、未完成の録音テープを聴きながら、糸川さんはイメージを広げたり絞ったりしているようにみえる。
堀宅に着くなりミーティングが始まった。その間、糸川さんは「下田さんの唄からはずれんようにせんとなぁ」と、何度もつぶやいた。
『泣くかもしれない』のコンビ・第二弾である。
「海は堀巨匠にまかせて、俺は緑の茂ってる感じかな」「カラーかな、モノクロかな、色の無いカラーか」と早速、写真を撮りに車を走らせることになった。堀さんの奥さんが、道案内兼運転手を務めてくれるという。私は、とりあえず助手ということで同乗する。堀さんと下田は、待ちきれないというふうで海パンに着替えていた。

『大きな楠の木』『単線の線路』『両側の木々がアーケードになっている細い道』等々、何ヵ所か回った後、下田達が泳いでいた岩場に戻りたいと糸川さんは言い出した。ちょうど夕日の美しい時間帯で「陽が沈むまでねばってみますから、先に帰ってください」夕方とはいえ、まだまだ岩場は暑い。下田と冷たいお茶を持って、迎えに行った。夕日に立ち向かう糸川さんは、ちょっとかっこいい。「今回は、俺入らないよ」と言っていた下田に「あそこに立って」「むこうを向いて」と撮り始めた。「人間が入ると全然違うなぁ。俺やっぱり人間撮らせたほうがうまいなぁ」大きな声のひとりごとを言いながら、撮り続けた。
 その夜、堀さんと下田の捕ったさざえや魚で宴会になった。いつも印刷をお願いしている湯玉の隣町のとようら印刷所の保ちゃんにも来てもらった。「父親が亡くなってから止めちょった活版印刷を、またしょうかと思うちょるんよ。30年ぶりよ」と言う。皆、大喜びで「じゃあ、今回の歌詞カードから始めよう。特に発売日があるわけでもないから、待つよ」と、下田が言う。堀さんは友達として、随分前から勧めていたこともあって、自分のことのように喜んでいる。「需要が少のうなって、その為に職人さんを雇うとくのも大変じゃろう。それでどこも止めていったんよ。まぁ、値段も5倍はするしねぇ」「ちょっと、持って来てみよう」と保ちゃんは、すたすたと帰って行った。私は、「5倍、5倍」と少し気が遠くなりつつも、活版の文字を見せてもらうとその美しさに「活版でお願いします」と言うしかなかった。私の心をみすかしたかのように「自分の夢に向こうちょる仕事やから、料金はいつもと同じでええよ」と、救ってくれた。

一週間おいて、糸川さんの写真を持って、再び湯玉へ走った。堀さんの絵も出来上がっていた。何枚も画いたらしいが、3枚並べられていた。絵の前に、写真を並べた。最初に1枚の絵が3人一致で選ばれた。そうすると、写真も「これが曲目の分かな」と自然に選ばれていった。夕日を前にした下田逸郎の1枚も当然のように選ばれた。


『君の色』が完成して ふと想ったこと

下田逸郎



   もうすでに6年前になります。
  1981年にCBS・ソニーから出たアルバム
  「ナイトパートナー」を最後に、何を探していたのか、
  あちこち旅ばかりして
  やっぱり唄しかないな、と気づいた時からはじめた
  インディズのCDづくり。
  それが6枚になった頃、
  「ナイトパートナー」のディレクターだった高久さんが
  レコード会社の社長になり、またいっしょにアルバムを
  つくろうという話になりました。

  1995年 ひとりでパリのカフェに座ってました。
  30分後にフランス人のディレクターと
  会うことになっていました。
  今までのインディズから5曲を選び、
  あと5曲はパリで新しくレコーディングする。
  それがキティミュージックとの契約でした。
  スコアやらテープやらは前もって送ってありましたが、
  フランスのミュージシアンたちと、
  うまくコミュニケーションできるかどうか
  多少の不安はありました。
  さらに日本を発つ前に、
  とつぜん腎臓に降り積もっていた結石が
  尿管を強引に通り抜けようとしたための激痛が
  いつ再発するとも知れず。
  さらに、昔々、パリのカフェで、離婚まぎわの
  夫婦との間に入ってしまった関係で
  思い出したくない体験があったりして、
  なんだかポツンとわびしくなったりまでして、
  要するに、私は50歳前のむずかしい
  年頃のどまん中を漂っていたわけです。

  小さなホテルの小さなロビーに彼は
  大きな身体に大きな笑顔で座っていました。
  ポールモーリア楽団とともに日本にも何度か
  来ていること、ノルマンディー生まれで私と
  同じ年齢であること、若い頃は唄っていたこと、
  私のテープを聴いてベースはウッドベースがいいと
  思ったこと、などなど不安はすっかり消えて、
  ミュージシャンたちとも「音楽は世界の言葉」
  を実感できました。
  「セクシィ」も「早く抱いて」も「不思議な気分」も
  新しい景色を描きはじめました。
  あのパリから私の唄が私の色として
  淡くあざやかに浮かびあがりました。
  空港行きのバス停で おもわず 彼を、
  バレンティンを強く抱きしめてしまいました。

     『君の色』を、今年亡くなった
  「セイムヴィンテージ」のバレンティン・クーポーに
  捧げたいと想います。

          2001年8月15日





ひとひら通信のバックナンバーページ
■2001年5月:●『旅の途中にて』
■2001年1月:●『南太平洋の話』
■2000年11月:●『フォトアルバム』下田逸郎、加川良、松山千春のコンサートの模様
■2000年9月:●『この唄』下田逸郎エッセイ
■2000年7月:●『ワルツの時間』12枚の絵。下田逸郎エッセイ
■2000年6月:●『ワルツの時間』レコーディングを終えて●下田逸郎ロングインタビュー最終回
■2000年5月:●『ワルツの時間』レコーディングが始まります●下田逸郎ロングインタビュー2
■2000年4月:●東由多加に捧げる●『ワルツの時間』レコーディングを直前に控えて
    ●下田逸郎ロングインタビュー1
■2000年3月:●レコーディング日誌。●「遺言歌」の紹介記事掲載。
■2000年2月:●たゆたい ストリングスアンサンブル誕生!。●「遺言歌」の紹介記事情報。
■2000年1月:●「時間を越えるチャンス」。●XXX情報。
■1999年12月:●「1999年のラブソング」。●XXX情報。
■1999年11月:●「弓矢のように」譜面。●XXX情報。
■1999年10月:●TVCMで「セクシィ」流れてます。●映画「皆月」で「早く抱いて」が主題歌に。
■1999年夏号:●「下田逸郎物語」本&2枚組CD発売しました
■1998年秋号:●「PARIS 湯玉 HAWAII」&「いきのね」レコーディング日誌
■1997年春号:●「あ・そ・び・な」全曲紹介&レコーディング日誌



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